ビラーンの医療と自立を支える会(HANDS)


せいこさんの
パササンバオ滞在記

私たちHANDSのパートナー団体パササンバオ統合ヘルスサービス(PIHS※)は、ゼネラルサントス市内に宿泊
施設を持っています。せい子さんは定年退職後フィリピンと日本を行き来している、植物が好きな女性です。ふ
つうの女性から見たPIHSとその活動について報告していただきます。

 ※ PIHS (Pasasambao Integrated Health Service):
 *設立:1984年マルコス大統領時代に弾圧の被害者となった女性たちのリーダーによって結成されたモロ
   女性センター。その医療部門として、2000年11月にG.サントス市のモロ民族居住地に設立されました。
   パササンバオ・クリニックと呼ばれるその小さな診療所では、鍼灸・指圧、薬草利用などを取り入れ、ヘル
   スワーカー研修でもその指導に力を入れています。代表のナプサさんは、看護師(Paradoctorとして一部
   医療行為も可)として、避難民の巡回診療団にも参加しています。
 *当会との関係:2002年7月のモロ民族3コミュニティにおける母と子の識字・衛生教育事業から本格的に
   協働を開始。以降、保健ボランティアの育成や巡回診療、薬草利用の普及などプロジェクトベースの事業を
   継続的に実施しています。
※ ミンダナオのイスラム系住民は「モロ moro」と呼ばれています。ここではその表記に従います。


パササンバオ総合ヘルスサービス(PIHS)の活動を垣間みて        渡辺せい子

<連載7> 2007/7/15 up 

★ 「学ぶ」姿がそこにあった

 パササンバオを支える人にボランティアスタッフがいる。各コミュニティに数人づつおり、日常の医療相談活動のほか、スタッフが出かけるときの事前準備なども守備範囲である。この人たちがいてくれなかったら、パササンバオの活動は動かないといってもよいだろう。よくここまで、学ぶことに真摯な人が集まったものだと、彼女たちに出会うたびに思う。その中から、今回はダンさんとダイナさんのふたりについて書かせていただく。

ダンさん−シギル(Sieguel)コミュニティのボランティアスタッフ

 やせて、はっきりした眉毛に大きな口が特徴の彼女。英語は私と同じくらいたどたどしくて、 
「お互い丁度つりあっているね」と、くったくがないが、彼女の歩んできた歴史を語ってくれた時
には、顔から笑みが消えていた。以下は彼女の話。 

 マルコス大統領の時代、イスラム教徒はみな虐殺を逃れて山へ逃げたが、とうとう父と兄を 
殺されてしまった。当然生活は貧しく、教育を受けられる環境ではなかった。だから英語も習えなかったのだが、大きくなってから中東へ働きに行き、片言の英語は話せるようになった。何故父や兄が殺されなければならなかったのかを、今も考え続けている。あの日のことは、一日たりとも忘れたことはない。 
 15歳の時、年齢を25歳といつわってドーハに働きに行った。(金持ち原油産出国の水事情など興味深い話もたくさん聞いたが、今回は割愛させていただく。) 
 その後クエートに行ったが、ちょうどイラクによる侵攻があった時で、燃えさかる原油タンクを目の当たりにした時は恐ろしかった。雇い主は私に家から出ないようにと言い残して自分たちだけが避難してしまった。怖くてひとり泣いていたら、外で国連の車が「フィリピン人はいないか」と呼びかけて いたので、家に鍵をかけて外に出た。その後バクダットからパキスタン他、あちこちの国を経由してやっと帰国できた。その時のつらい経験から、困っている人がいたらアドバイスしてあげようと思うようになった。
 コミュニティの貧しい人たちは、医者に行ってもどう話してよいか分からない。何とか力になっ
てあげようと、いろいろな人につきそって世話を続けていた頃、パササンバオのメンバーに会う
チャンスがあり、誘われてボランティアスタッフとして参加するようになった。 

 以前は体が弱く、体中が腫れ上がり、こーんなに太ってみえたのよ、長くは生きられないと思
っていた。それがパササンバオからハーブ薬をすすめられて、すっかり体はよくなった。だから
私は村の人にもハーブ薬をすすめるのが自分の使命と思っている。今はハーブ薬のこと、作り
方などをもっとたくさん学びたい。ここにいて自分の知識が増えることが無上の喜びだ。 

 こう語ってくれたダンさんは、暇を見つけては、懸命になって医用植物の本(Common  
medical plants)を読んでいる。少し暗い部屋で、彼女が声に出しながら、ひとつひとつの植物
名を確認しながら読みすすんでいるその姿は、私には神々しいものに映り、深く心に刻み付け
られたシーンであった。 

ダイナさん− トゥヤン(Tuyan) コミュニティのボランティアスタッフ

 パササンバオの仕事をサポートするために早朝から夜遅くまで、自分の住むコミュニティに
限らず各地のコミュニティを飛び回っている。一息つく暇もあまりなさそうだ。
 このひとと話していると実に聡明な女性だと思わされる。フィリピン人といえば、口癖のように
「日本へ連れて行ってほしい」とか「お宅の息子と結婚したい」とか言ってくるのが当たり前の中
にあって、「そんなことを口にするのは恥ずべきことだ」と言ってのける彼女はめずらしい存在
である。また、他人の噂話にうつつを抜かしている人たちの中で「オープンにされていないこと
をあれこれ話してはいけないよ」とはっきり自分の意見を言う。こういう人がボランティア全体を
まとめているのを見ると、パササンバオがうまく機能しているのもうなずける。 

 自分の家にはバナナやフルーツの木がたくさんあり、それらの世話をひとりでやっているよう
だ。彼女は農業に関する知識も深く、バナナにつくウイルスは焼くしか方法がない、など、かな
り専門的な情報を交換することができた。
 しかし、この聡明な彼女が、若い時には、カレッジを卒業する寸前に好きな男と駆け落ちをし
たという。母は当然大反対で、卒業してから結婚しろ、と怒ったが、駆け落ちを決行。しかし、
所帯をもち、やがて子どもができた頃、その男が働かなくなってしまった。ということは彼女ひと
りの働きで家族を支えてきたのだろう。彼女は今50歳近いというから、随分長い間苦しい生活
を続けてきたようだ。大決心をして、その夫をマニラに残し、ミンダナオの郷里に帰ってきたの
はつい8ヶ月前とのこと。 

左がダイナさん
 パササンバオに参加するようになって以来、フィリピン の抱える政治的状況を含め、いろいろな問題に目が開 けるようになったことが何よりも嬉しい、という。今は友 人もたくさんできて、こんなにハッピーなことはない、と 繰り返す。アビナさん(写真、右)が講師を努めるセミナ ーに参加し、フィリピンの歴史などについて学び、目を 開かされたと言う。彼女から「どうすればフィリピンのこ の貧しい状況を変えられると思うか」と質問された私 は、「選挙で自分たちの意見を代表してくれる人を選ぶ ことじゃないか」と答えた。
しかしフィリピンの現実は、立候補者や支援者がひんぱんと殺される有様で、私などの想像を
はるかに超える厳しいものが横たわっていた。セミナーは長時間えんえんと続き、周りが眠そ
うな顔をしている中で、ダイナさんとダンさんだけは、最前席で目をパッチリ開けて聞いていると
いう。その様が目に見えるようで、さもありなんと、深くうなずいてしまった。 

 この二人のボランティアスタッフと出会って、「学ぶ」ことの原点を見た思いがする。初めて勉
強をする機会に巡り合えた彼女たちには、喜びをもって「学ぶ」姿がそこにあった。もうれつな
スピードで数々の知識が吸収されているのだろうことがうかがえる。話していていつも胸がいっ
ぱいになった。 
 パササンバオが続いている秘密のひとつに、このようなエネルギーにあるように思われた。 


<連載6> 2007/6/15 up 

★ バナナの葉と 「か・つ・れ・い」

 日本人でかつ女性である私にとって、「割礼」とは聞いたことがある言葉だけど、はたして何
をどうするのか想像すらおぼつかないものだ。しかし、この割礼、ムスリムの男性にとっては絶
対避けてとおれない義務(通過儀礼)であるらしい。割礼をしなければバカにされる世界なのだ
そうだ。
 パササンバオでは巡回診療のひとつとして、年に1回この割礼を施術している。今回私が見 
学させてもらったのは、シギル(Sieguel)というコミュニティでのこと。 
 準備は前日から始まる。まずコミュニティへ出かけ、集まった村人を前にスタッフが説明をす
る。そして木陰に小さいテーブルを持ち出して受付開始。7歳以上の男児が対象となる。皆に
集まってもらったり、受付けの手伝いは数人の現地ボランティアスタッフが行なう。たしかに施
術以外の仕事を現地の人に手伝ってもらわなければ、ことはスムーズにはすすむまいと思わ
れるほどの多人数が集まっていた。ここでもまた、ボランティアスタッフへの事前教育がうまくな
されていることを実感させられた。

 前夜は遅くまで、スタッフが集って準備作業が続いた(勿論手伝いましたよ)。20cm四方くら
いにガーゼを切り、たたんだものを数枚重ねて紙に包む。これを何十組用意しただろうか。そ
して蒸し器のような滅菌器に入れて15分蒸気消毒をする。その他、アルコール類、手術用ハサ
ミやピンセット、述後に与える抗生物質薬など、全てを揃え終わったら真夜中になっていた。こ
れらの器具類はすべて寄付によってまかなわれたものだという。 

 これだけの大荷物に加えて、手術要員であるボランティア(看護学生など)数人を乗せるに
は、公共乗り物のジプニーでの移動では到底無理だ。レンタルした大きな車(ピックアップ)に
全員乗り込んで出かけた。誰かが「サーディンのように詰め込むんだよ」と言って笑わせる。缶
詰の中にびっしり詰まったオイルサーディンをご想像あれ。もともと貧しいモロのひとたちが始
めた貧しいひとたちへのNGO活動なのだから、お金などあるわけがない。ガソリン代はますま
す高騰し、「これじゃ日本と変わらないじゃない」と、パササンバオの運営の苦しさがまるごと伝
わってくる。せめて車1台を自分たちで所有できれば、高いレンタル料を払わなくて済むだろう
し、1台のバイクに3人乗りで数十キロも駆けずり回っている今の大変さから少しは解放される
のではなかろうか、と、車を寄付したいという思いがむくむくと頭を持ち上げてきたのだった。

 さて、現地では、1辺を25cm位の正方形にカットし、さらに真ん中に穴をあけたバナナの葉が
たくさん準備されていた。この葉が重要で、これを子どものナニの上からかぶせて手術を行な
うのだ(これを見たときには「おおーっ、さすがバナナの葉は役に立つ」と思わずうなってしまっ
た) 。
 そこへ昨日エントリーした7歳くらいの子どもたちが三々五々親に連れられてやってきた。あとは、ヘルスポスト(HANDSの支援により建てられた地域医療施設のこと)の前で椅子に座って順番を待つ。いずれも不安そうで落ち着かない。テーブルをベッド代わりに、3人に施術するのがやっとという狭い部屋の中で、子どもたちは腕で顔を覆っていたり、あらぬほうを眺めたり、それは緊張しきって横たわっている。ナプサさんたち執刀者は、まず、バナナの葉をかぶせたナニを念入りにアルコールで消毒し、ここで麻酔注射をする。だから痛みはないようだ。
手術中。こわくないよ。
 しかし、その後はハサミやフックのついたピンセットようのもので包皮部分を少しづつ切除し
ていく。いっぺんにくるりと切りとるわけではなく、ガーゼで止血しながら徐々に切りすすんでい
く。そして縫合。最後は、包帯のようにガーゼで手術部分を包んで、絆創膏で固定して終了。 
3人の執刀者の後ろで、使用済のハサミなどをアルコール溶液に漬けて消毒・殺菌を手伝うひ
と、汚れたガーゼなどを片付けるひとなど、ここは全てボランティアの仕事だった。終わって出
てきた子どもの顔は、誇らしげなものあり、不安そうなものあり、ぶかぶかのTシャツの前をつ
まんでのそろそろ歩きは、見ていてつい笑みが浮かんでしまう。 

フリークリニック開業中
シギルのヘルスポスト 

細菌感染をふせぐための抗生物質の薬を受け取って、 ここで終了となる。全ての行程は狭い小屋の中で行な われたけれども、病院での外科手術と全く変わりなくす すめられていくのを見て、私は感嘆するのみであった。
 たしか20人がエントリーしたはずなのに、今日は12人 しか手術を受けなかったという。はて?と思っていたら、みんなが切開するところを覗き見ていて、「あー切った。血が出てる、出てる」なんて囃し立てるものだから、怖く なって逃げちゃった子が8人だったのだそうだ。来年ま たトライしてね。

 以前は手馴れた人が割礼を施していたもののようだ。「細菌感染の危険が高いのでは」との
私の質問に、答えは「だから切った後は海へ飛び込むんだよ」。うわーっ、痛そうー。最近は町
の医者にかかるのが普通となり、最低500ペソはかかるとのこと。しかし、この巡回診療に来れ
ば、「原則無料、寄付として50ペソお払いいただければ結構です」なのだから、貧しい村人には
どれほど感謝されていることか。 
 この割礼、調べると、イスラム教・ユダヤ教・アフリカの一部族で行なわれているそうで、単に
宗教的儀式としての意味合いだけでなく、衛生上の観点から必要性があるとのことだった。熱
帯地方など細菌が繁殖しやすい地方や、乾燥地帯などであまり体を洗わない地域で、衛生上
行なわれるというのだ。それにしても、やはり良くわからないなぁ。
 「日本では?」と聞かれて、「日本でも西欧でも誰もやっていないよ」(実はユダヤ教徒は西欧
にもいるので、正しくないのだが)「だから割礼は慣例で行なわれているんじゃないの」と話して
みた。そして「じゃ、ムスリムでは何故やるの」と逆に聞き返してみると、全員そんなことは考え
たこともない、という顔。「コラーンにあるの」と聞くと「そうだ」との答え。「じゃ女の子に割礼する
というのもコラーンにあるの」とたたみこむと「それはない」「最近はやらなくなった」という返事だ
った。この会話、割礼の必要性を信じている彼らの中に、混乱の種を蒔いてきただけだったの
かしら。でも、私は、異文化交流は大事だと思うので、どこに出かけてもあえて文化の違いにつ
いて語ることにしているのだが。 

 さて、女子割礼は、より正しくは女性器切除のことである。今現在でもアフリカや中東などで
1億人以上が犠牲になっている悪習であり、女性に対する暴力の一つとして反対運動が繰り広
がられている(朝日新聞2007.6.5)。何をされるのか、想像するだけでも体に震えがくるのだが、
実はメンバーのひとりが幼い頃にやられたと、こっそり打ち明けてくれた。痛ましくて詳しいこと
を聞くことははばかられたが、遠い昔の話ではないことにむしろ驚かされた。


<連載5>

★ 延々と続くミーティング
各コミュニティにはパササンバオのスタッフ1名につき 2名という割合で、ボランティアスタッフがおり、出かけ ていった先で集会の準備や進行係など、あれこれ手 伝ってくれる。確かにボランティアスタッフがいなけれ ば到底やっていけそうにもない仕事の内容と量であ る。毎月末ゼネラルサントス市内で開催されるボラン ティアスタッフのミーティングに同席させてもらった。 
朝から三々五々、ボランティアスタッフ(全員ではない ように思われたが7〜8人位か)が集まってきた。
まず、めいめいが大きな紙に、今月の行った活動と内 容をマジックで懸命に書き付けている。それが終わる と、各自、紙を壁に張りその前で発表する。といえば簡 単だが、途中から熱心な討論になってしまったりする (何しろ全てがビサヤ語なのでチンプンカンプン)。時々パササンバオのスタッフが軌道修正したりアドバイスを 入れたりしている。この、紙に書いて報告するという方 法は、スライドやパワーポイントなどで発表するよりは、苦労や温かみがじかに感じられてなかなか良いものだった。 
 さて、このミーティング、お昼ご飯とミリエンダ(おやつ)の休憩時間以外は、延々暗くなるまで
続いたのには驚き。それがダラダラしているようにも見えないのだから、会社でつまらないミー
ティングに付き合わされ続けた私としては、驚異であった。
そして夜になって夕食を全員で作って食べ(これにもびっ くりしたが)、「これから帰るのでは危険だなぁ」と思っていたら、心配無用なんのことはない、全員一泊でした。ボラ ンティアでコミュニティから市内まで出てきているのだか ら、おやつや食事を出すくらいはしなければならないだろう、と納得がいった。
 翌日と翌々日は、今度はスタッフミーティングを開くのだそうだ。本当に真面目な人たちだなぁ、という以外に適当な言葉が見つからなかった。


<連載4>

★ 緊急事態発生

 朝早くから何やらあわただしい。見知らぬ男性がやってきて、大勢の子どもたちに異変が起
きていると訴えているらしい。連日あちらこちらとコミュニティ間を走りまわっているパササンバ
オのスタッフ4名、疲れているだろうに全員で出かけていった。私は疲れていてとてもついてい
けないからと失礼してしまった。あとで唯一の男性スタッフのアバさんに聞いたところでは、15
人以上の子どもが発熱・嘔吐を繰り返していたという。それぞれに適切な処置を施し、注意事
項を伝えて帰ってきたとのこと。そこは乾燥地だから、周辺は食用になる草木も茂らないとても
貧しい地域なので、医者に見せるなんて論外、薬も買えないし、だからここを頼ってきたのだと
いう。

★ 急患と結核患者

 私が宿泊していた部屋の向こう側が騒がしくなってきたと思ったら、ふたりの赤ちゃんが脱水
症状でお世話になるという。下痢らしい。パササンバオには2人の看護士がいるので、早速赤
ちゃんの腕に点滴を始めた。ところで、付き添いがすごい。一家総出でやってきた、というのは
このことだろう。おばあちゃん、父親、他の兄弟と総勢何名なのか、しかとは分からないのだ
が、とにかく沢山。何とかいう島から週に1回しか出ないボートに5〜6時間のってやってきたと
いうのだから凄い。もっと凄かったのは、提携しているクリニックの医者に診せるために出かけ
た時のこと。1台のトラィシクル(乗客2〜3名乗りの三輪バイク)に運転手以外に5〜6人が相乗
りし、赤ちゃんの腕に繋がったままの点滴チューブをひょいとバーに引っ掛けたまま、暑いミン
ダナオのガタガタ道をこともなげに進んでいったことだ。たしかに何ごとも起こらなかったのだっ
たが―。その後、かれこれ10日間は滞在したろうか、今日は天気も安定していて海も荒れない
だろうという日に、すっかり元気になってニコニコしている赤ちゃんを囲んで2家族が帰っていっ
た。日本では到底考えられない光景であった。
 また別の日には、首の脇のリンパ腺あたりに腫れ物 の出来たお嬢さんがやってきた。ナプサさんの話ではおそらく結核だろうとの事。この時には病院へ連れていきX線撮影をしてきた。多分診断がついたのだろ う、2泊してから帰っていった。あのお嬢さん、はたして 薬は買えたのだろうか。 

★ 針治療もいたします

 手首にぷっくりと塊ができた患者さん。針をうっていま す(写真)。経過を知りたいところだが、帰国してしまっ たので、またこの次。 



<連載3>

★ 薬草はこうやってつくります <ティナガカンTinagacan・コミュニティ> 

 山崎さん・相田さんと合流し、私はティナガカン2度目の訪問となった。パササンバオ・ヘルス 
&トレーニングセンターと銘打ったヤシ屋根の集会所に大勢の女性が集まって、「ハーブ薬つ 
くり」が本日のメーンイベント。
 ラグンディ(Ragndi)の葉を砂糖とともに煮詰めれば、喘息に 卓効ありとのこと。りっぱな喘息患者である私は恰好なモデル ケースになれそう。皆で楽しくコンロを囲んで、和気藹々と薬つ くりが始まった。2時間近く煮詰めたものを小瓶につめて出来 上がり。約100ミリリットルが30ペソだった。このハーブ薬の売 り上げが僅かながらもコミュニティの収益となる。 
 他にタワタワ(Tawa-tawa 赤葉と白葉の2種あり)は粉末にす ればデング熱に効くし、葉から滲み出る白い液体は眼病に効く という。写真は、ボランティアスタッフのノーアンさんが、薬草の 標本を示して、ハーブとその効能について説明しているところ。 日本で言えば漢方薬に当たると思うが、フィリピンには先祖伝 来の薬草が数多くある。私もいずれは腰をすえてハーブ園を 作り、薬草図鑑を手がけることが夢なので興味津々であった。
 貧しいフィリピンの人たちには、医者に処方されても薬を買えない人のほうが多い。だから手作りで薬を作って分けあうというこのパササンバオ方式は多くの支持が得られるのだと思う。このようにして学び実践した薬作りが周囲の村々に拡がっていくことが最も大事なのだと、スタッフは語ってくれた。 
 薬草を煮詰めている間、おいしい昼ごはんを、 
集まったひと全員でごちそうになった(写真左)。 
皆が集まって何かをするということがまれになってしまった日本。隣人に何が起こっていても気が
つかない、あるいは気がつかないふりをしている日本人のエゴイズム、老人の孤独死などに思
いを馳せたひとときであった。 

 ティナガカンにナプサさんと共に訪れた前回のこと。脳性マヒの3歳児を抱いた母親から目を
離せなくなった。体は小さく目は片側が不自由らしい。母親はただ黙って抱いた子をゆすって 
あやすだけ。他にも4歳児で同じような子がいるという。町のソシアルケアに診に来てくれるよう
頼んだが、このような貧しい地域には来ないのだそうだ。このコミュニティは、屋根材にする編
み込んだヤシの葉が唯一の収入源なのでとても貧しい。だから組織化して、医療の基礎知識
だけでも広めることが必要となるのだろう。 
 ナプサさんからこんな話を聞いた。「せめて沸かした水をのませてほしい」と教えて歩いてい
るのだが、それすら守られないので赤ちゃんの病気は絶えない、と。「何故守れないのかしら」
と聞いたら「あそこでは沸かさない水を飲んでも大丈夫だったから、と言うのよ」とのこと。煮沸
することから教えなければならず、しかも、何度も何度も繰り返して、となると、もう忍耐力勝負
の世界である。貧しいということは、きれいな水の供給すらままならないことを意味する。殺菌
済みの水(これはこれで別な危険性を含むのだが)が自動的に出てくる日本で暮らしている私
には、想像をはるかに超える<生きる姿>がそこにあった。

 貧しい家屋、病気でやせ細った子どもなど、写真をお見せすれば、私のたどたどしい文章を
読んでいただくよりずっと分かりやすいと思うのだが、実のところ、そのような光景に出会ったと
きに、私はどうしてもカメラを向けることが出来なかった。だから撮影枚数はわずかしかない。


<連載2>

★ お金だけではない本当の支援を <トゥヤンTuyaen・コミュニティその2>

 トゥヤンでの長時間集会のあった日の夜、ナプサさんにいろいろ聞いてみた。 

「私はフィリピン人というのはなかなか本心を表に出さない人たちだと思っていたのだけ
れど、それは誤解だったのかしら。今日の集会を見ていたら、みんなガンガン意見を言
うし(口角泡を飛ばして、と言いたかったけど、英訳できなかった)、驚いてしまった」と言った
ら、ナプサさんが言うには「それはその通りよ、始めは誰も一言も話してくれなかった。意
見を聞いても何も言わない。だから、最初はワークショップを開いてトレーニングを何回
もしたのよ。3回目でようやく自分の意見を言うようになり、今では町役場の役人のところ
へ行っても、堂々と意見を言えるようになった。自分の意見を公にするためにはトレーニ
ングすることが重要です。」

納得。なるほど、そこから一歩一歩積み上げなければならないのだ。

 ナプサさんのオーガナイザーとしての力量には、つくづく「感服」の一語につきる。ニコニコし
ながら辛抱強くみんなの話を聞いている。これが実際かなり長時間なのだ。そして何事か(ビ
サヤ語でわからないが)語り始める。ゆっくりした口調で説得するように話す。しかし「今日は少
し怒ってしまった」という。「ある男性が、パササンバオにはどういう助成団体が付いていて、
我々に何を提供してくれるのか、と聞いてきたのよ。お金だけを期待して集まってくる人がい
て、私たちの努力はなかなか伝わらないの。このトレーニングセンターを建設した時のことを思
い出してください。3日間、コミュニティの全員が力とお金を出し合って建てたじゃないですか。
(これは日本でいう「結」と同じだ。今では死語かもしれないけれど。)パササンバオの目的はコ
ミュニティ自身が自立できるよう支援することです」と力説したとのこと。こうやって、何回も何回
も同じ事を根気よく話していかなければならないナプサさんとスタッフたち。

ナプサさんと甥っ子
フィリピンのような貧しい国の人たちは、「日本のNGOが サポートしている」と聞けば、それはそのまま「お金を貰 える」と思ってしまうのも無理からぬところがある。日本 人=金持ちなのだ。NGO・HANDSのメンバーと聞けば、 「うちの娘は成績が良いが貧しくて学費が払えない、何と か奨学生にして」と、母親に涙目で訴えられるなんてこと はしょっちゅうだし、「学校の畑が泥棒に荒らされるので フェンスを作りたいがお金がないので援助してほしい」 と、堂々と要求してきた小学校の先生たちもいた。貧しく て満足な食事もとれない子どもたちを目の辺りに
すると、何とかしてやりたい、とすぐ思ってしまう自分がいる。でもここで、単に金銭的援助をす
るのというのではNGOの存在意義がない、というよりは本末転倒になってしまう。何とか自立で
きるよう援助を行なうのでなければ、貧しい国はいつまでも貧しいままで終わってしまう。この
一点を共有できるからこそ、私はナプサさんたちの活動を支援しつづけたい、と心から思って
いる。


<連載1>

 PIHS代表であるナプサさんの、ムスリム独特のベールに包まれたその顔は、若く美しい。小
さなお子さんが4人もいるのに、その子たちをお姉さんのアビナさんの家に預け、ほとんど毎日
のように各地のコミュニティに出かけていく。バイクに他のスタッフと3人乗り(!)で、数10kmく
らいの遠方まで出かけるのは毎度のことだという。
 運賃が安いといわれているジプニーに乗っても、ガソリン高騰のせいで3〜4人で出かけると
交通費はバカにならない。だから無理をしてもバイクで行くのだという。ガソリンが1リットル当
たり付加価値税込みで44ペソ(=約107円)というのは日本とさして変わらない値段で、これが
貧しいフィリピンの人たちの生活を直撃している。 

 パササンバオのスタッフ合計4名(女性3名、男性1名)は、ゼネラルサントス市とその周辺に
あるモロ系の14コミュニティのうち7ヶ所を巡回している。この人数ではこれが精一杯というのは
とても良く分かった。全員、土日の休みもなく出かけていくのを見ていると、彼らの使命感の強
さに圧倒されてしまう。「コミュニティを組織する時、一番初めに何をするの」と尋ねたところ、セ
ミナーやオリエンテーションを何回か開いた後、フリークリニック(無料診療)を開始するという。
ハーブ薬を治療の中心において、時には男の子たちへの割礼手術も行う。1つのコミュニティ
を訪問するのは毎週、隔週いろいろで、近辺の場合は毎日訪問するし、バイクで5〜6時間か
かる遠方なら、現地に1週間滞在することもあるという。患者で一番多いのは、子どもの下痢・
発熱。そして結核。訪れるたびに新しい患者がいる。どこも貧しく汚染された水を飲むのが原
因と聞けば、ハーブ薬で追いつくのかと不憫になってしまう。他にレクチャーやワークショップと
言ってスタッフが出かけていくのを見たが、それぞれの内容の違いについては聞かずじまいだ
った。

★ 議論百出でした <トゥヤンTuyaen・コミュニティその1>

 今日は「ダイアローグだ」と言っていたから、対話集会みたいなものらしい。トレーニングセン
ターに15〜20人くらいが集まっていて、まずナプサさんがあらかじめ用意しておいた紙を貼り出
し、話が始まった。英語すらタドタドしい私なのに、ミンダナオでの共通語であるビサヤ語での
やりとりは全くわかりませーん。(写真右側の黒いスカーフの人がナプサさん)どうも話の内容
は多岐にわたっているらしく、この集会の時は、写真の手書きの近隣の地図を見て「あーでも
ない、こーでもない」と1時間も話が続いた。その間、ナプサさんはにこにこしながら実に根気よ
く皆の話を聞いている。その後はどうやら地域の役員の一人が預かっていた共通費を使途不
明にしたとか、その当人が欠席でらちがあかないとか、また長いこと話は紛糾した。これがナ
プサさんたちの活動と何の関係があるのかと思っていたら、「無料診療所の時には大勢ひとが
集まるのに、話し合いとなるとこんなに少ない。アンフェアだ。今日来ない人には無料診療は受
けさせないとか、順番を最後にまわすとかすべきだ」という話に繋がっていった。側にいた英語
の話せる女性がそう説明してくれてようやく事態がのみこめた。とにかく皆けっこう激した調子
で話すので、これで何かまとまるのかしら、と心配になる。でもナプサさんは相変わらずニコニ
コしている。と、さっぱり要領を得ない話に付き合っていたら、おおぶりで低音の声の、おそろし
く強面のおばさんに捕まってしまった。英語で「結婚してるか、子どもは何人いるか」とお定まり
の質問から始まって、「日本の歌を歌え」ときた。
夫に早死にされひとりで子どもを育てたという話 で、51歳という実年齢とは程遠いお婆さん顔に 苦労がにじみ出ていた。さて、そのおばさん、日 も暮れかかり対話集会も終わり近くなった時に、 やおらシャツをめくりあげグラマラスなおっぱい を出して何やらわめきだした。この時ばかりは 何事かと本当に驚いた。が、後で聞いたところ では「私はここに腫れ物ができた時、医者に見 せてもどうにもならなかった。だけど、この無料 診療でもらった薬をつけたらホラこの通り良くな った」と言って、一種の応援演説をしてくれたの だそうで。ヤレヤレ。
 途中で昼食をごちそうになったし、またミリエンダと称するおやつの時間もありで、食事で来
客をもてなすのはフィリピンの習慣らしい。帰りにはバナナやキャッサバなどお土産まで持たせ
てくれた。(でもスタッフが少しお金を払っていたから、いただきっぱなしはやはりダメなのか
も。) 
 さて、このコミュニティでの話し合い、結論が出なかったとかで、翌朝ナプサさんとスタッフが
また出かけていったのには、心から「お疲れ様」でした。


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